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廣瀬洋一氏の贈り物






「富士山測候所が民間に貸し出されたとのニュースを見て、関係の方々に役に立つならば寄贈したい」という有難いお便りを廣瀬洋一氏(野中到の協力者で若い友人・廣瀬潔氏の長男)から頂いたのは2009年の4月である。富士山測候所を使い研究を続けたいという目的で発足したNPOの事務局にとって、富士山測候所が、個人の偉業によって出発し、その後民間の有志のお世話になって維持されたことを知る「歴史」との初めての接点であった。

当時、頂いたものをこのページにまとめる(NPO事務局に額に入れて飾ってある)。その後も、NPOの活動をご理解下さり、折々のお便りやご親族のご寄附で援助して下さった。 廣瀬洋一氏は2017年8月9日に89歳で逝去されたことをご家族からの喪中のお知らせで知ったが、富士山測候所の初期の歴史の証人を失ったことは残念でならない。



[右の写真]後方左から廣瀬潔、野中到、菅原芳生(初代富士山測候所長)、前方左から廣瀬潔の長女滋子、長男洋一、菅原恭子(菅原夫人・野中到の三女) 神奈川県茅ケ崎市野中邸にて(昭和8年撮影) (敬称略)




野中到から廣瀬潔に宛てた書簡(昭和8年3月5日)
残念ながら全文ではなく一部分であるが、書簡の追伸には富士観象會の設立のことや、極地観測年の決定の記述などがある。…





追伸(部分)

追伸 迂生菲才を顧みず明治二十二年高層氣象の觀測に志し多年學術上竝に大自然の偉力を顧慮して地を富士山にトし其の半腹の大雪崩の恐あるに鑑み山頂劍峰に矮屋を私設し八ヶ月閧フ糧食を準備致し同二十八年冬觀測を試み候ところ不幸にして風土の冒すところとなり已むを得ず業半にして下山仕候へども寒中滯嶽約三ヶ月閧フ經驗に因り東京帝國大學、中央氣象臺等の先輩諸士の熱烈なる贊同を得再擧の目的を以て同二十九年富士觀象會の設立を見るに至り候

然るに機運尚未だ至らざるか業務遲々として進展致さず是に於て斷然獨力經營に決し爾來多年拮据勤儉して貸殖に努力致し經驗に鑑みて自から設計に工夫を凝らし將に百餘坪の工費を得んとするに至り候へども不明の致すところとはいへ不幸にして往年財界の恐慌に煩はされ爲に甦生の已むなきに至り候闕トび專念盡瘁致居候折から時なるかな昭和五年ゼネヴァに開催したる國際氣象會議に於いて航空機の發展に伴ひ高層氣象觀測の學術上及び實際上きわめて重要なることを認むるに至り因て全世界の極地と高層との氣象觀測を昭和七年七月一日より加盟各國一齊に實行致すことに決議相成たる次第に有之候

因て我國に於ては調査の上富士山頂に決定致候へども同山頂に未だ國立觀測所の設備無之然るに已に協定されたる各國一齊觀測の時期は寸刻も躊躇すべきにあらざるを以て往年冬迂生劍峰籠居中踏査撰定したる山頂安ノ河原に多年考究の上大正元年夏自から創案設計し堅牢を旨として建置きたる特殊建造物の廿年間風雪に耐へ得たるを政府に於て使用の儀下命相成たる次第に有之一小矮屋ながら幸に斯業に貢獻し得べくば固より迂生の本懷と致すところに御座候へば快諾提供致候すゑ昭和六年八月各測器室、觀測塔等を増築爾後中央氣象臺より時々ここに出張して寒中の滯嶽を豫行せられ風雪地震にも安全なる結果同七年五月當該建物を政府に寄附して聊か奉公の微意を表し候

是に於て同年七月十日政府に於ては同上の建築樣式に因りて起工し廳舍を増築せられ風雨と鬪ひ多大の困苦を凌ぎて此難工事も幸に十月十五日竣工を告ぐるに至り候

然るに一ヶ月を經て十一月十四日夜襲來せし臺風は東京方面に於ては一秒時最強三十乃至三十五米なりしが山頂に於ては五十米にして已に風力計を吹飛ばせしも爾後體驗により七八十米なることを感ぜしに拘らず能く之に耐へ得ることを確認致し候

本觀測所の位置は其の高さに於て世界第二に位し全坪敷百坪を算するに至り三階の觀測等を設け無線電信、電話等の通信機關は申すに及ばず發電裝置を以て各室に電燈を點じ、屋上の雨水を一大タンクに流注して飮料、沐浴の用に供し又寒中の運動室をも設けて保健に充て其他食料燃料等一切の搬上完了致したる次第に有之是より先き國際會議に於て協定したる一齊觀測は已に昨七年七月一日より迂生寄附の觀測所に於て開始せられ引續き目下新館と併用して壯年の中央氣象臺員諸士四名滯嶽して風雪と鬪ひ粉骨碎身して觀測實施中に有之其成績は追て萬國へ宣布可成候

子孫の代を待つの外なきかをかこちたる斯業が幸に機運到來致し中央氣象臺の機宣を得たる措・・・(以下は残念ながら記録にない)



富士山頂の観測所閉鎖の難を免る(昭和9年8月19日)
 三井報恩会から7千圓(東朝新聞 昭和9年8月19日)
つい先頃癌研究所のラヂウム購入に百萬円を投出した三井報恩会では資金難で今年から閉鎖する外はあるまいとされていた富士山頂の観測所に約七千円を補助して甦生させることになった…






富士山頂風速の記録(昭和9年9月21日)








昭和九年九月二十一日
 富士山頂風速
  午前 三時 三二米
  午前 六時 四九米
  午前十一時 六〇米
  風力計吹飛ばさる
  最高風速推速八〇米突風の際は百米 當日平均三一米 風向南西又は西南西

富士山頂觀測所に於いて  中央氣象臺技手
  藤村 郁雄
  柳本 俊亮
  松井 林平

昭和九年九月二十四日 見舞のため登山 せる日本山岳會々員
  廣瀬 潔 氏
のために記す


颱風時高山岳の風速と被害 (昭和10年9月)
廣瀬潔著 (月刊山岳雑誌『ケルン』昭和10年9月號別冊)
台風の高山岳に及ぼす気象的影響はすこぶる広汎複雑であって海洋平地等に比較して特に顕著なものがあるが、そのうち『風速の増大とこれに伴ふ被害』は直接登山家とも関係が少なく無いので昨年の室戸台風とその圏内に捲込まれた富士山について少しく考察を試みて見よう。…





「富士山」
「富士山」というタトルの古い本を頂いたのは2009年4月である。NPO法人の東京事務所に廣瀬洋一という方からお便りが届いた。故広瀬潔氏の御子息で、「亡父の遺品の中に野中先生の手紙などを発見したので」と送って下さったものの中の一つである。 野中到・千代子夫妻の壮絶な山頂滞在後も通年観測を諦めず、「富士観象会」を設立して観測の準備を行なっていた野中氏を資金的に援助した三井報恩会の関係者、日本山岳会会員として山岳気象学の先駆者でもあった廣瀬潔氏は富士山測候所の恩人の一人である。…


寒中滞嶽記
野中至
玄冬の候、富士山巓の光景は、果して如何なるものなるべきや。吾人の想像以上なるべきか、これを探して以って世に紹介せんことは、強ち無益の挙にあらざるべし、よって予はここに寒中の登岳を勧誘せんと欲するに臨み、先ず予が先年…
氷雪の冨士行
廣瀬潔
二月二十六日(曇後晴、夕刻より強風)
早朝鎌倉をたつ。駅で深田氏と落合い、大船から和久田氏も加はつた。二人とも昨夜よく眠られなかったとみえ、眠さうな顔をしている。…


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