追伸 迂生菲才を顧みず明治二十二年高層氣象の觀測に志し多年學術上竝に大自然の偉力を顧慮して地を富士山にトし其の半腹の大雪崩の恐あるに鑑み山頂劍峰に矮屋を私設し八ヶ月閧フ糧食を準備致し同二十八年冬觀測を試み候ところ不幸にして風土の冒すところとなり已むを得ず業半にして下山仕候へども寒中滯嶽約三ヶ月閧フ經驗に因り東京帝國大學、中央氣象臺等の先輩諸士の熱烈なる贊同を得再擧の目的を以て同二十九年富士觀象會の設立を見るに至り候
然るに機運尚未だ至らざるか業務遲々として進展致さず是に於て斷然獨力經營に決し爾來多年拮据勤儉して貸殖に努力致し經驗に鑑みて自から設計に工夫を凝らし將に百餘坪の工費を得んとするに至り候へども不明の致すところとはいへ不幸にして往年財界の恐慌に煩はされ爲に甦生の已むなきに至り候闕トび專念盡瘁致居候折から時なるかな昭和五年ゼネヴァに開催したる國際氣象會議に於いて航空機の發展に伴ひ高層氣象觀測の學術上及び實際上きわめて重要なることを認むるに至り因て全世界の極地と高層との氣象觀測を昭和七年七月一日より加盟各國一齊に實行致すことに決議相成たる次第に有之候
因て我國に於ては調査の上富士山頂に決定致候へども同山頂に未だ國立觀測所の設備無之然るに已に協定されたる各國一齊觀測の時期は寸刻も躊躇すべきにあらざるを以て往年冬迂生劍峰籠居中踏査撰定したる山頂安ノ河原に多年考究の上大正元年夏自から創案設計し堅牢を旨として建置きたる特殊建造物の廿年間風雪に耐へ得たるを政府に於て使用の儀下命相成たる次第に有之一小矮屋ながら幸に斯業に貢獻し得べくば固より迂生の本懷と致すところに御座候へば快諾提供致候すゑ昭和六年八月各測器室、觀測塔等を増築爾後中央氣象臺より時々ここに出張して寒中の滯嶽を豫行せられ風雪地震にも安全なる結果同七年五月當該建物を政府に寄附して聊か奉公の微意を表し候
是に於て同年七月十日政府に於ては同上の建築樣式に因りて起工し廳舍を増築せられ風雨と鬪ひ多大の困苦を凌ぎて此難工事も幸に十月十五日竣工を告ぐるに至り候
然るに一ヶ月を經て十一月十四日夜襲來せし臺風は東京方面に於ては一秒時最強三十乃至三十五米なりしが山頂に於ては五十米にして已に風力計を吹飛ばせしも爾後體驗により七八十米なることを感ぜしに拘らず能く之に耐へ得ることを確認致し候
本觀測所の位置は其の高さに於て世界第二に位し全坪敷百坪を算するに至り三階の觀測等を設け無線電信、電話等の通信機關は申すに及ばず發電裝置を以て各室に電燈を點じ、屋上の雨水を一大タンクに流注して飮料、沐浴の用に供し又寒中の運動室をも設けて保健に充て其他食料燃料等一切の搬上完了致したる次第に有之是より先き國際會議に於て協定したる一齊觀測は已に昨七年七月一日より迂生寄附の觀測所に於て開始せられ引續き目下新館と併用して壯年の中央氣象臺員諸士四名滯嶽して風雪と鬪ひ粉骨碎身して觀測實施中に有之其成績は追て萬國へ宣布可成候
子孫の代を待つの外なきかをかこちたる斯業が幸に機運到來致し中央氣象臺の機宣を得たる措・・・(以下は残念ながら記録にない)