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富士山巓の観象臺




この『富士山巓の観象臺』という18頁の小冊子は、野中到の大志を実現させるために寄付金を募るための文書(募金趣意書)であろうか。 表紙に「富士山巓観象臺設置費凡十五万圓」というバナータイトルの下に「▲新聞、雑誌記者諸君ヨ、野中氏ノ大志ヲ賛成シテ此文ヲ貴紙ノ一隅二見ルノ榮ヲ與ヘヨ・・・(以下、学校の職員諸君、各宗の教師諸君、陸軍将校諸君、実業家諸君・・・と続いているが省略)」とあり、また、「此文を讀まん人々は、務めて此事を多くの人に吹聴し、叉は新聞雑誌に掲載して、間接に観象臺の事業を扶助せられんことを請ふ」とあるとおり、新聞雑誌等に掲載してもらうことを意識した原稿らしい。

※この冊子は昨年11月26日の訪問時に野中 勝氏のご厚意により数部頂いたものである。

發行年月日: 明治33年(1900年)2月28日
編輯兼發行者:松島 剛
発行所:   春 陽 堂
サイズ:   B5判・18頁








本書の構成
1.諸言
2.野中君の經営
3.山上越年の實驗
4.野中氏夫妻の下山
5.富士観象會の設立
6.富士観象臺の圖案
7.観象臺設置費概算
8.歐米諸国の高山観象台
9.天下の有志者に望む




富士山巓の観象臺

ふじさんてん  かんしょうだい





松島 剛
此文を讀まん人々は、務めて此事を多くの人に吹聴し、叉は新聞雑誌に掲載して、間接に観象臺の事業を扶助せられんことを請ふ






緒 言



富士觀象會なるもの起れり、ことは抑(そもそ)も何に由りて起れりや、今更らに言ふまでもなく、去ぬる明治二十八年の冬、高層の氣象を觀測せんとの希望にて、單身富士山の絶頂に越年せんとし、健氣なる細君の幇助ありしに關らず、不幸にして疾(やまひ)に犯され、殆んど將に斃(たほ)れんとし、恨(うらみ)を呑んで下山したる、彼の野中至君の堅志(けんし)と忠實の行とに胚胎(はいたい)し來れるものなり。



蓋(けだ)し君が斯(この)事業 志してより、茲(ここ)に十餘年、或は氷雪を踏んで、山巓に攀(よじのぼ)り、又或は私財を抛(なげう)ちて、觀測所を建立し、又或時は終夜寢ずして沈思し、又或時は東西に奔走して計畫せる、その苦心の慘憺たるは、苟(いやし)くも血性を有するものをして、奮って君が爲に一臂(いっぴ)の力を致さんことを思はしむるに足るものあり。餘の如きも自らはからず、發起者の末班(まつはん)に加はり、密かに其萬一を補はんことを期するものなり。而して餘が之を贊成する理由は、概ね左の如し。

一、高層氣象の觀測は、諸科の學藝に裨益(ひえき)少からざるのみならず、延(ひ)ゐて人生の幸福を攝iすべし、これ歐米各國に於て概ねこれが設備ある所以なり

二、富士山は東海に聳立(しょうりつ)し、其高さ一萬二千尺に剩り、八面玲瓏(れいろう)、眼界極めて廣遠にして、實に天然の觀象臺と謂ふべし

三、富士山は日本の名山にして、其名世界に知られ、我が皇室と共に、長(とこしな)へに此國の特相を代表するの實あるを以て、此山頂に建つる觀象臺は、須(すべか)らく世界に有數なるものとなし、建築竝に設備を完全にして國光(こくくわう)を發揚すべし

四、富士山は古來、雄大、高潔、又は美麗の模範として、或いは詩歌文章に謠詠(しやうえい)し、若しくは繪畫、美術に描寫(びやうしや)せられ、爲めに邦人の氣象を醇化し、品性を高尚にせしこと少からざるべし、故に今此山巓(さんてん)に人工を施さんとせば、宜しく國民の衆力を蒐(あつ)め、更に一層の美觀を添へ、以て此名山の高コに報ゆる所なかるべからず

五、我邦の名山大嶽は、大概人蹟の至らざる所なく、毎歳夏期に至れば、登山者踵を接し、絡驛(らくえき)として斷ゆることなく、或いは一山にして、其數萬を以て算するものあり、身體の練磨上よりも見るも、精神の修養上より看るも、これ誠に一種の美風にして、吾人は益々此習慣を養成せんことを希望す。殊に年の男女をして、四周の海洋に航遊せしむると共に、亦山嶽を跋渉(ばつしやう)するの習慣を養成せしむるは、ヘ育上最も有益と認むる所なり。然れども從來の登山者は、多くは唯神社、佛閣を拜し、若しくは風光を賞するに過ぎざるを以て、將來は成るべく學術研究の如き一層高尚なる趣味を旅客に解特せしむるを可とす 故に先づ富士の山頂に觀測所を設け、併せて其山腹にも、山麓にも適宜の設備を爲し、以て登山者をして有益にして且つ興味ある觀察を爲さしめ、此名山を一變して、日本の一大公園たらしめ、獨り内地の人のみならず、廣く萬國の人士を誘致するは、これ實に明治昭代の最大快事ならずや

右の數項は、吾人が富士山の絶頂に觀象臺を建設するより生ずべき利益中に參入すべきものと認め、而して其建設を希望する所以のものなり。此文を讀む者は、必らず多少吾人と同樣の感想を抱くものあらん、請ふ奮て此事業を贊成せよ、學術のために其生命を犧牲とする野中至君の大志を翼贊せよ、讀者知らずや、曾て野中君が嚴冬山上に越年せんとし時、其令妻千代子が遙に其愛兒をク里に託し、風雪を冒し、否な生命を賭して、良人の艱苦を一萬二千餘尺の山頂に分ちたる、其貞操、其 を知らずや、之を聽く者誰か奮發興起せざるものゐらんや、餘輩請ふ今左に野中君夫妻が此事業のために盡瘁苦心せるその實歴の一班を開東せん。







野中君の經営





野中君が高層氣象の觀測に志ざせしは、明治二十年頃にして、爾來歐米各國の高山觀象臺(卷末に參照として其所在、比較を掲く)の組織、構造、越年の方法、等を調査し、或いは中央氣象臺を參觀し、或いは經費其他のために種々苦心せしが、心算粗成りしを以て、二十七年十一月の氣象集誌に其志望を發表し、次て二十八年一月及び二月、觀測所の位置を撰定せんため、且つは山巓の積雪の状況を視察せんため、君は猛然氷雪を冒して登山を企て、第二囘目に辛ふじて其目的を達することを得たり。常時の氣象集誌に掲げたる第一囘紀行中に左の一節あり(要旨を抄録す以下倣之)
午前五時三合目の手前に達す、寒暖計を見るに氷點下八度なり。暫く休息して夜の明くるを待つ。試みに懷中の切り餠を取り出せしに、乾固して食ふべからず、食麺麭(しょくぱん)も同じく固くして味なし。此邊より上は積雪益々凝固まり、表面は全く硝子(がらす)の如く、氷の縁は悉(ことごと)く刄の如く鋭く尖れり。試みに氷の一片を碎きて口に入るれば、唇は恰(あたか)も吸寄せらるるが如く、附着して離れず、遽(には)かに之を引離すに、氷の雨面に血痕を印せり。此邊より傾斜俄に甚だしきが故、毛履(けぐつ)の上に釘底の履(くつ)を穿き、長柄の鳶口を打込み、雨足を交々(かはるがはる)踏しめては、鳶口を打ちかへ歩を進めたり。若し一歩を誤らんには、忽ち滑りて氷なき所までは止まりがたき慄(おそれ)あるをもて、眞に薄氷を踏み、深淵に臨むの思(おもひ)をなせり。
×××××暫らくして日出づ、日光の表面に映する有樣は、恰も研ぎすましたる幾萬の刄物を羅列(ならべ)たるが如く、燦爛(さんらん)として眼を向くべき樣なし。 ×××××××××鳶口も靴も損じて用をなさぬ故、午前十時頃下山せんと戰戰兢兢(せんせんきょうきょう)と匍匐(はい)つつ四合目を過ぎしとき、如何にしけん足を踏みはづして、四五丁許り滑りしが、幸に三合目の室に衝き當りて止まりたり云々。
又第二囘目の紀行中に記して曰く、

顧(かへり)みれば、太カ坊邊は一帶の雲棚引き、降雨あるものの如し。一合目邊より此邊迄、積雪の上を掠(かす)めて吹き下ろす風は、時々小粒の雪塊を飛ばす、其状恰も吹雪に異ならず、此時は氣息奄々たるのみならず、面を打ち劈(つんざ)くかと思はれたり云々。

かくて又氏は同年五月觀測所建築の調査のため登山し、次て七月工事に着手のため山麓に出張し、同月中旬靜岡縣廳の認可を得て、山巓(さんてん)劍峰(つるぎがみね)を借用し、同月下旬大雨を冒して木材運送の便否を調査せんために登山し、且つ劍峰の最高點に觀測所の標柱を建てたり。次て建前の準備成れたるを以て、八月十二日石工、人夫、二十餘名を引き連れて登りしより、爾後種々の艱難を犯して、一切の材料を運送し了はりたれば、氏は豫ねて手傳のために山麓に來り居りたる令妻に諸般の處務を委せ、己れは工事監督のために登山したり。かくて氏は建築に着手せしに、風雨のため、若しくは寒暑のため、工人等と共に非常の困難に會ひ、殆んと生命を危くしたる事、又は令妻が手透(てすき)をうかがひ、團子を剛力に背負はせ、三合目迄來りたる事、或は神官竝びに山麓の有志者等が祝意を表し、又は工事を助けたる事どもは、當時氏が東京の雙親(そうしん)に送りたる新書中に詳(つまびらか)なり。

氏が當時の目的は、先ず兎に角山巓に越年して、他日のために經驗を得んとするにありしが、九月廿日中央氣象臺より氣象の觀測を囑託せられしを以て、和田技師等と共に登山して、器械を据え付けたり。かくて下山の後ち、氏は八ヶ月分の薪炭買入れのため、須山村に趣きたり。

さて觀測所の建築も成りたれば、令妻は良人の命に由り、令兒を伴ひて歸京の途に就かれしが、既に心中に決する所やありけん。御殿場停車場(すていしょん)より一封を東京の舅姑(きうこ)に送りて、其所思を告げ、己れは直ちに筑前福岡の實家に赴き、之に令兒を託し、單身歸り來たりて、良人と共に越年の艱苦を共にすることとはなれり。嗚呼美なる哉令妻の此振舞。實に此良人ありて此妻女あり、豈(あ)に偶然ならんや。聞く令妻の此決心は、野中氏も後に至って知りたるなりと、又人々の此事を聽くに當りてや、百方抑止せしも、令妻は斷乎として當初の決心を遂行しらるなりと。嗚呼何ぞ義に勇むの心の烈なるや、實に女丈夫(じょじやうふ)と謂うべし。







山上越年の實驗



却(かへつ)て説く、野中氏は薪炭の外、無人ぎやうかくの地にありて、單身八ヶ月を支ふるに足るべき、被服、食料の準備は更なり、之れが運搬のために無智の人夫等、數十名を相手に、或は風雨を冒し、寒氣と戰ひ、又は東西に奔走し、前後登山すると數十囘にして、遂に萬般の準備整ひければ、愈(いよいよ)九月三十日知友、家人、及山麓の有志者等に送られ、單身越年の登山をなしたり。かくて觀測所に着するや、直に器械を整へ、其の夜半十月一日より觀測を始めたり。其當時氏が甞めたる苦難は、氏の手記に詳なれど、紙數の揩ウんことを恐れ、遺憾ながら左に其の大要を畧記(りやくき)するに止むべし。

×××××荷物狹室に散亂するも、觀象に忙はしくして、急に整理する能はず、炊事を爲す暇(いとま)もなく、僅かに罐詰を齧(かぢ)りて飢えを凌ぎ、又寒氣意外に強きも、器具散亂して、寢具を伸ぶべき餘地なく、遂に十二三日閧ヘ、征衣の儘晝夜草鞋を解かず、勇を鼓し、氣を勵まし、晝夜ろくろく睡(ねむ)らず、或は夜中寒風を冒して、屋後の氷山に攀(よ)ぢ登り、鐵槌(てつつい)を以て器械に附着せる氷雪を打ちこはす等、千苦萬艱(かん)に試みられるるありしに、圖らずも妻登山し來りたれば、專ら觀測に從事し、稍(やや)勞苦を緩むる事を得たり云々。
斯くて十月下旬には温度著しく降(くだ)り、寒氣亦凜冽となり、且つ風力益々強くなりたれば一々戸外に出て、囘光儀を取扱ふこと能はざるに至れり、此囘光儀とは、富士の絶頂高さ一萬二千五百八十尺、四方五十里を眺瞰すべき高所に据え付けて、沼津測候所との通信に供したるものなり。



十月の末千鳥の報效義(はうかうぎ)會員松井、女鹿の二氏、郡司氏の厚意を齎(もた)らして來訪し、山頂凄愴(せいそう)の光景を見て大に驚き、千島の比にあらずと言へりといふ。當時二氏の去るに臨み、令妻千代子は郡司氏にまゐらせむとて、一首の歌をかきつく、
  わが爲にはるばるとはせ玉ひつる
      心おもへばなみだのみして
至氏もまた二氏のために
  我邦の北のしづめとなりぬべき
      搓rたけ雄の身を守れ~

氏等夫妻は艱苦(かんく)の中にもかく厚意の訪問に心を慰めつつ、十月十一月と過ごし、寒氣の次第に募るは勿論、風力非常に強く、寧日(ねいじつ)とては一日もなかりしが、諸事既に整理したれば、折々はク里の事など思ひ出たるとありとなん、實(げ)に理(ことは)りといふべし。氏の手記に左の一節あり、當時夫妻兩君の胸中左こそと思ひやられて、涙の袖を濕(うる)ほすを覺えざるなり。

×××××諸般の事、稍(やうや)く整備して、幾分安堵の思ひをなし、室内に閉居するに至るや、餘等が意氣豪ならざる故か、將(は)た人情の、免れざる所ならんか、×××××夜半觀測の闕などには、暖爐に向ひながら、蕎里(きやうり)に預け置きたる三才の小兒が事など、始めて思ひ起こせしともありたり云々。
落合直文氏の物せる「たかねの雪」に左の一節あり。

十一月三日、けふは天皇の御祝ひ日なり、朝日の影うるはしく窓よりさしこみて、空のけしきも常には似ず、二人はとく起き出でて、朝ぎよめなどして、×××××至氏は、やがて日の丸の旗を××××風力台のもとに立てむとて、窓の戸こぢ放ちて、いざり出でぬ。××××風はげしくてえ立てず。今は力なく、そをふところに捲き入れ、二人はうやうやしく跪(ひざまづ)きて、××××御所の方を拝みまつりぬ。折しも雲むらむらと起り、にはかにはたて吹き立ち、勢すさまじく、×××岩か根もゆるぎわたり、×××かよわき女の身いかでかこれにたへうべき。千代子は二三間がほど吹きとばされつ。×××辛うじて室の内にはひ入りぬ。
×××二人は常に綿もて耳を塞ぎたれど鼻の内、口のあたりはいづれも裂けやぶれて血を出すにいたれり。××××
此頃夫妻二氏は歌よみて、互に心をやりしこともありしとなむ、今その二首をしるす。
至氏
  うた人の眺めのみせしふじのねを
      御代の光りとわれはなさなむ
千代子
  搓rをの身にはあらねど国のため
      つくす心はいかでゆづらむ

さて爰(ここ)に在嶽中最も不幸なる事起れり、そは他事ならず、兩君が交はる交はる病魔に侵されたると是れなり。令妻は十一月上旬より扁桃腺炎を患ひ熱氣昇り、咽喉腫れ塞がり、湯水も通せずなれり。又此病氣の平癒するに引續き全身腫れて殆んど別人の如くなれり。野中氏は此の時の事を記して曰く

×××××醫藥も用意したれど、かかる病に襲はれんとは思ひ寄らざる事なれば、僅かに下劑を用ひなどして、一向(ひたすら)囘復を祈りしも、浮腫容易に減退せず、然るに如何せん之を平地に報するの道なく、左ればとて猛烈なる吹雪の中を下らんことは、到底一二人の力をもて爲し得べきに非ず、又之を下山せしめんとは、無論當人の本意に非ざるべしなど、獨り憂慮に沈みたりしが、固より無人の境なれば、或はかばかりの事あらんとは、兼て期したることなりしにと思ひ返し、よしよし萬一運拙くして斃れなば、飮料用の水桶になりと死骸を入れ置くべし、など心に期したることありき。
氏はかく令妻の病のため斷腸の思をなせしが、細君の病漸く癒(いゆ)るや、氏も亦同病に惱まされ、一二月中旬は病の峠なりしが、幸に足を引き摺りながら觀測丈は缺くことなかりしといふ。當時亦令妻の心中推し測られて憐れなり。此の頃氏の令弟某君と外五六の人々(先月中旬に風雪の爲に八合目より引返せし山麓の有志者)、又々訪問せんとせしが、吹雪激しくして皆登り得ず、其中山麓の村長勝又氏と剛力熊吉なる者と兩人のみ、死に物狂になりて轉げ込む如くにして觀測所まで來りたり。 此の時氏は病氣の事を他言せざる樣、來訪の二人に誓ひ置きたりといふ。








野中氏夫妻の下山



それより氏の病も漸くおこたりしにより、雨三日も經ば、しか其筋の耳にまで入りしと見え、仝月廿一日和田技師、山麓の警察署長筑紫警部、等は屈強なる剛力を引率して、一行十二人注意周到なる準備を爲して、迎の爲めに登山し、下山を勸めたり。氏は初め固く下山を否み、醫藥を得て尚ほ引續き在嶽せんことを請ひしも、和田技師初め懇々其非を説き、最擧の可なるを諭しければ、氏も止むなく遂に下山することとなれり。氏が當時の情況を手記せる其大畧は左の如し。

×××××妻は既に全快し居りしが、餘は猶ほ立つと能はざりしため、兩人とも剛力に負はれ、他に三四人の剛力前後を擁護し、吹雪に吹き倒されぬ樣深く注意しつつ下れり。餘は登山以來非常に心身を牢し勞し、且つ病體を氷點下三十度許りの吹雪に曝らし、殊に浮腫せる胸部を剛力の背部にて壓したれば呼吸益々苦るしく、空を んで煩悶し、口中冷えて舌動かず、物云ふとも叶はず、氣力次第に弱わり、眼も見えずなりしかば、殘念云はん方なく、寒風に向ひ切齒して眼を見張りしため、兩眼朱の如くなり、傷み耐えがたく、加ふるに足は氷の上を引摺りしため全く凍傷し、氣力次第に盡き果てて、終に人事不省となりたり。
既にして、夜半不圖人心地に歸り、聽けば巳に八合目の石室の爐邊に舁き据えられ、一行は百方手を盡くして餘の病體を暖めつつある最中なりしが、それより呼吸の逼迫、凍傷の痛み、眼球の激痛、等甚しく四苦八苦の責に會ひたる心地せり。去れど餘等は原ことより覺悟の前なれど。此の際始終一行の骨折、心配は如何計なりしか、禿筆に盡されず。此一行の人々は實に餘等の命の親にして、生涯忘るる能はざる所なり。

かくて氏の一行は三合目迄降りしに、遠近の人々知ると知らざると、前夜より雪を侵して出迎へたるに遭ひ、二合目より山駕籠に乘りかへ、山麓なる佐藤氏の宅に着するや、翌日帝國大學總長初め有志諸氏の總代として三浦醫學博士、氏を見舞はれたりといふ。

以上は氏が高層觀測事業に志してより苦心經營すると數年にして、遂に去ぬる明治二十八年の冬、登山越年を企て、病のために充分目的を達すると能はざりし、其始末を畧述(りゃくじゅつ)したるものなり。さて氏は九死を出てて一生を保ち、東京に歸りて後ち、在嶽中の状況を氣象臺へ報告したり。其要項は富嶽の地勢、觀測所の位置、及其構造、觀測器、氣象、飮食料、燃料、被服、等の件なり。摘記して讀者の一覽に供へたきものあれど、今は全く之を省きたり。







富士観象會の設立



扨(さ)て野中氏は前に陳べたる實地の經驗により、斯事業の成敗は、全く設備の如何にあることを知りたれば、衆力を併せて大成を期せざるべからずとなし、爾來(じらい)一層愼重に調査に從事し、翌廿九年7月及八月再度登山し、其初囘には氣象臺の技手と共に登山し、曾て殘し置きたる寒暖計を檢べしに、最低氣温は攝氏氷點下三十三度を示せるを見たりといふ。又三十年九月には、新に撰にたる成就嶽の觀象臺敷地試驗のため、十名の人夫を伴なひて登山せしが、不幸にして日々強風大雨に妨げられ、一歩も外出することを能はず、七日目に風力の少しく衰へたるに乘じ、空しく下山したり。此の時は山下は快晴なりといふ。又三十一年四月には、氏は富士郡淺關_社に行き、成就嶽借用の認可を縣廳(けんちやう)より得、仝年八月K田侯爵と共に登山せし時は、觀象臺敷地の熱量を測りたり。氏はかく毎年登山し、種々實驗を重ねつつ、傍ら建築材料、其供給地、剛力の募集法、又は山上の風土に適する觀象臺の圖案を調査し、其他斯計畫を實施するの方法に就き、日夜苦心し、遂に一個の團體(だんたい)を組織するの必要を感じ、三十二年二月より雨寺尾博士、添田法學博士、中村氣象臺長、和田技師、菊地博士、山川博士、箕作博士、歯博士、田中館博士、大森博士等の諸氏と會合(かいごう)し、茲(ここ)に富士觀象會設立の志望を述べたり、其要項左の如し。

一,富士山觀象の事は國家事業たるやの疑あれど、邦人がよく一萬尺以上の山頂に常住し得るや否やは、猶ほ未決の問題なるを以て、政府は官僚を任命して死生の地に入らしむること、將校の兵士に命令するが如くなるべからず、故に至不敏と雖(いえども)、自ら之に當たらんと決心し、且つ謂(おも)へらく、歐米人の能く爲す所、邦人之を爲す能はざるの理なし、軟弱なる婦女も滯在すべきの見込あり云々。

二、歐米諸國にては、高山觀象の設備概ね具はるも、日本は富嶽の如き天然の好觀測地ありながら、 未だ其設けなきは、獨り學術上の缺點(けつてん)のみならず、文明國としての缺點といふべし云々。

三、至寒中在嶽の經驗により、山頂に觀象臺を設置するの、學術上必要且つ急務たるを感ずると同時に、觀象の外、諸學術研究の機關を供ふるの利益を覺れり。故に其規模を擴張せざるべからざるを以て、私費の能く辨(べん)ずべきにあらず云々。
にして、來會者皆大に之を贊成し、乃ち趣旨、會則を決定し、渡邊洪基君を委員長に推したり。次いで委員等はしばしば會合し、又氏は八月渡邊氏と共に登山し、爾來發起人贊成者無慮百六七十人の多きに至り、且つ何れも知名の學者、將校、紳士ならざるはなし。是に於いて昨年一二月十日發起人總會を東京地學協會に開き、趣旨會則を議決し、茲(ここ)に富士觀象會成立せり。會則の要點は左の如し。

第一條 本會は富士山に於て諸般の學術を研究する者を幇助(ほうじょ)す云々。

第三條 (一)山巓に觀象臺を建設し、書籍、器械を備へて學者の使用に供す云々。(二)觀象臺に臺員を常置す。(三)電話、電信、等を設備す云々。(四)事業の進歩に從い山腹と山麓にも觀測所を建設すべし。

第五條 會員を(一)名譽會員、(二)特別會員、(三)通常會員に分かち、又(四)贊成員を設く。(一)は學識名望有る者を推擧す、(二)は百圓以上を一時又は一年内に分納する者、(三)は二十圓以上を二ケ年内に分納するもの、(四)は五圓以上を一時に寄附せし者とす。但し五圓未滿の寄附者は永く本會に名籍を存す。






富士観象台の圖案



さて野中氏が爾来苦心して作れる圖案は、右に掲くる如し。但し同氏一己の私案と知るべし。










観象臺設置費概算



次に観象台を建築し、且つこれを維持する費用の概算は、金拾五萬圓とし、其細目左の如し。

一金五万圓 建築其他設備費

内譯
一金弐萬圓………………………………………建築費
一金壱萬五千圓…………………………………電話線架設費
一金五千圓………………………………………儀器購入費
一金三千圓………………………………………書籍器具費
一金弐千圓………………………………………雑費
一金五千圓………………………………………予備費

一金拾万圓 維持基本金

此基本金より年々生ずる利子を六千圓と仮定し、其六千圓の費途左の如し

一金六千圓 観象臺一カ年経常費

内譯
一金弐千八百圓…………………………………観象臺職員手当
一金弐千弐百圓…………………………………食料、燃料、雑費、修繕費、等
一金壱千圓………………………………………予備金






欧米諸国の高山観象台



さて歐米諸文明国に於いては、高層観象のために如何なる設備を為せるや。今参照のために其重要なる観象臺の所在地を擧くれば左の如し。

南米エルミステー山……………………… 一万九千尺(富士山よりも高きこと凡7千尺)
佛国モンブラン山………………………… 一万六千尺(富士山よりも高きこと凡四千尺)


富士山の占むべき位置

墺国ヅンブリック山………………………… 一万尺(甲州駒ケ岳に同じ)
佛国ビックデュミヂー山………………… 九千尺(加州白山に同じ)
魯国コイラムスク山………………………… 八千尺(信州浅間山に同じ)
英領印度ダールヂーリング山…………… 七千尺(信州白根山に同じ)
北米マウント、ワシントン山…………… 六千尺(野州赤城山に同じ)
英国ベンチビス山…………………………… 五千尺(相州丹澤山に同じ)

先ず大要此の如し、而して此等の観測所も未だ能く数年間續きて観測せしもの、甚稀なるよしなれば願わくは我国をして高層観象事業完成の名誉を博せしめんと、希望に堪えざるなり。






天下の有志者に望む



以上記する所を讀み玉ひて、江湖の諸彦富士觀象臺の設けざるべからざる所以を解し、且つ野中到氏の身を挺して學術界のため、又國家の體面のため、敢て前人の未だ試みざる難局に立たんとするの至誠を感じ玉はんには、學術と國家に關する直接の必要及び利益上より、且つ個人と社會に關する當然(たうぜん)の情誼(じゃうぎ)又義務上より、願わくは同氏の精神に協ふに足るべき物質を供給して、同氏を幇助(ほうじょ)し、富士觀象臺を成就せしめらんとを、吾人は希望して止まざるなり。而して世の有志諸君が幸に此事業のために物品又は金園を寄付せられんとするときは、其多少は敢て問う所にあらず、五錢可なり、十錢可なり、一圓、十圓更に可なり、百圓、千圓、萬圓尚更に可なり、且つ 事業は成るべく衆力を集めて成就せんことを望むが故、若し、學校、軍隊、ヘ會、寺院、會社、工場、官衞、等の如きは、適宜其寄付金品を取りまとめて、送附せられんことを希望するなり。(金三圓以内は三錢郵便切手代用苦しからず)。又寄贈金品は東京小石川原町五十五番地富士觀象臺事務所宛に送付あらんことを請ふ。




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